2007年7月29日日曜日

天が砕けたような



昼食後、
どれどれプールにでもいこうかな、
洗濯物を取り入れたとたん、
どかんどかんどかんどかんどかん、と音を立てて、雷雨。

すんごい集中豪雨だね、こりゃ。

コンピュータ、
コンセントから抜いておいたほうがいいのかなあ。

投票日の朝に



ローレンス・ブロックに、
「バッグ・レディの死」という短編小説があります。

私立探偵マット・スカダーのもとに弁護士がやってきます。
ある女性からあなたに遺産が託されている。
受け取ってもらえないか。

遺産をのこしたのは、メアリー・アリス・レッドフィールド。
ニューヨークで暮らしていたショッピングバッグ・レディでした。

けれど、スカダーは彼女と親しいわけではありませんでした。
ほとんどおぼえていなかった。
そういえば道端で彼女から新聞を買い、
釣り銭を受け取らなかったことがあったかもしれない。
そんなことを思い出せるくらいにしか。

ホームレスのような生活をしていたメアリー。
けれど彼女には、
じつは資産があり住むとこころがあり家族もありました。

なのに彼女は、
道端で新聞を売って小銭を稼ぐ、
買い物袋をかかえて歩く日々を選んでいました。

ある日、道端で刺されたうえに首を絞められ、
そのまま路地で死んだメアリー。

その彼女が、
見ず知らずのスカダーにおくった千二百ドルもの遺産。
また彼女は、スカダーのみならず、
三十二人の友人とも知人ともつかない人たちにも、
さまざまな額の遺産をおくる遺言をのこしていたことがわかります。

いくつもの小さな《なぜ?》。

名前も知らなかった女性がのこしてくれた、
理由のわからない千二百ドル。
彼女が自分にそれだけの価値があると勝手に思ってくれた?
じゃあ、それはそれでいいではないか。

スカダーはそう思おうとします。

   だが、そんなふうには考えられなかった。
   どういうわけか、金が私の心を噛んだ。

そう述懐して、
スカダーはひとりでメアリーの事件を調べはじめることになります。
そして……。

ローレンス・ブロックの小説のなかで、もっとも好きな小説です。
この「こころを噛む」「こころが噛まれる」という表現が、
以来、気になるようになりました。

この台詞自体が「こころを噛んだ」という感じでしょうか。
そしていまでも、ぼくは噛まれたまんまです。

       *       *       *

こころを噛んだ、というのとはちがうかもしれませんが、
最近、気になっていることばがあります。

自民党から立候補した丸川珠代さんという、
東京選挙区の候補者のポスターに掲げられている、
スローガン?コピー?です。

   日本人でよかった。

ご本人が考えたのでしょうか。
支援している「えらい人」が決めたのでしょうか。
それとも、広告代理店がひねりだしたのでしょうか。

意味不明、というより、その意味するところがさっぱりわからず、
その穴の抜けぐあいというか底のしれない深さに、
街でポスターを眺めるたび、
気味の悪い空虚をそこに見てしまいます。

この人の政治家としての資質についてはわかりません。

住民票云々で選挙権がしばらくなかった、
というのは、おっちょこちょい。
ずぼらだとは、まあ、いわないでおきましょう。
そのため最近は選挙にいってなかった。
投票所へいってはじめて自分に投票権がないことに気づくようでは、
有権者に笑われてもしかたがない。

とはいうものの、
与えられた選挙権をすべて行使することと、
その人の政治家としての資質・能力については、
じつは、正直、あまり関係ない気がします。

公約を読んでも、中身はない。
でもそれは、この人だけでなく多くの候補者に共通します。

最近の閣僚の失態や言動を考えると、
今後、厚顔無恥ささえ身につければ、
ごくふつうに政治家としてやっていけるような気もします。
残念ながら。

当選したらきちんと仕事をしてほしい。
落選したなら、その瞬間こそが、
政治家としての本当のスタートなのだと思います。

ところで、
住民票が東京になかったあいだに源泉徴収されていた住民税。
こういうのって、どこに収められていたんでしょう。
実際のところ……。

ともあれ、

   日本人でよかった。

このことばの、
意味というものに関しての無自覚な感じや、
あっけらかんとした暴力性に、
ぼくは唖然としてしまうのです。

       *       *       *

投票日をむかえた参議院選挙。

すでに期日前投票をすませてあるぼくは、
今夜の選挙速報を楽しむだけとなりました。

なにか大きな変化がおこるかもしれない。
おこらないかもしれない。
政界の再編成がおこるかもしれない。
おこらないかもしれない。

けれどそれでも、
日本では「こういう政治」がしばらく続いていきそうです。
首相が交代しても、政権が変わっても、
根底はなにも変化しない、日常。

AがA’になり、A’’になりA'''へと移っていくだけ。

でも見回してみると、
そうでない国も世界にはたくさんあります。
政権が変わることが、
即、国の根幹をゆるがしかねないような国。
国そのものが解体しかねない政治情勢にある国……。

はたからみているとそのドラスティックなさまは、
文字通りドラマティックかもしれません。
でも、その渦中にいる人たちは、
ストレスの多いたいへんきびしい状況を強いられます。

ドラマティックって、当事者は、ものすごくつらいもん。

そんなにつらいくらいなら、
平和ボケといわれている状態でもいいよ。
そういう選択肢だって、あり、かもしれません。

いっけん平和で安定している社会にだって、
位相の異なる困難な状況というのが待ちかまえているわけですけれども。

そうした風潮にやきもきしている人がいます。
もっとドラスティックに変わらなくては、
この国はダメになってしまうではないか。

でも、人為なんてものに、
それほどたいしたことができるとは、思えなくて。

ゆっくりと朽ちていく、おだやかに老いていく。

どこの政党も「もっとよくする」ばかりでそんなことはいいません。
けれど、
そういう成熟のありかたというのもあっていいと思うのですよね。

そこに美しさを見出してその美しさを愛でるというのも、
かつての日本人は得意だったと思うのですが、どうでしょう。

あ、しまった。
投票日ということで、思わず政治的な発言。

次回は「宝くじが当たってしまった」話でも。

2007年7月28日土曜日

スモッグもくもく



東京はこのところ、午後になると光化学スモッグ警報発令中。
目やのどが痛くなる被害はいまのところ、ありませんが。

猛暑になると出る警報。
風があれば、ならないらしいんですけれど。

子供のころは「光化学スモック」と思っていました。
ところがある日、
「スモックって、あの服の上にかぶるように着る上着のことじゃん!」
気づいたときは、はずかしかったなあ。

そういうことがいっぱいあります。
というか、そういうことばかりです。

2007年7月25日水曜日

プールにいきました



ぼくは、こんや、プールにいってきました。

プールにいったのはひさしぶりです。東京サマーランドにいったのがいちばんさいきんのプールです。いちばんさいきんといいましたが、10ねんいじょうまえのことです。

きょうのために、日よう日、すいえいパンツとゴーグルをかいにいきました。かっこいいんですよ。オリンピックのせんしゅみたいです。すいえいようのぼうしはかいませんでした。調布市のしえいプールはぼうしをかぶらなくていいからです。

ひさしぶりのプールはたのしかったです。ひさしぶりだからおよぎかたをわすれてしまっているかもしれないとしんぱいをおもっていました。でもだいじょうぶでした。

クロールでおよいだら、いきつぎをしないで25メートルおよぐことができました。いきつぎをしなかったのは、いきつぎのしかたをわすれていたからです。いきつぎをしようとするとからだがしずんでしまいます。水をのんでしまいそうになりました。だからいきつぎはこれからべんきょうしなければいけません。しくだいです。

ひらおよぎのしかたもわすれていました。きたじまこうすけせんしゅみたいにおよいでみたいとおもったのに、まえにすすまないししずんでいくだけでした。どうしてなのかわかりません。

50メートルおよいでやすむ、およいでやすむをくりかえしました。ゆっくりだったけれど、すこしずつむかしのかんをとりもどしていくかんじがしました。こうはんはとてもきれいなおよぎかたになっていたとおもいます。おなじプールでおよいでいた女子のみんなの目はハートのかたちになっていたのではないでしょうか。くぎづけです。もてもてです。

1キロとすこしおよぎました。ひさしぶりなのにがんばりすぎてしまいました。ひさしぶりだからがんばりすぎたのだとおもいます。

プールから帰るときは、コーラをのむかアイスクリームを食べながら帰ろうとおもいました。ガリガリ君のソーダあじを食べながらじてんしゃにのって帰りました。そういえば、こどものころはこんなふうに夏休みをすごしていたなあとおもいだしました。

帰りついたら、すごくつかれました。しょくよくもないくらいです。こんやはこの日記をかいたらすぐにねようとおもいます。サッカーをみたいけれど、あんなおそくまでおきていられないとおもいます。はやねはやおきです。ぐっすりねむれそうなきがします。

えにっきのえは、ぼくがおよいでいるところです。いっしょにおよいでいるのはシーズーのらんまるです。しえいプールはいぬはいっしょにおよげません。だからいっしょにおよいでいるきもちでおよいでいました。

おしまい。

2007年7月24日火曜日

空を見て考えた



執着するということの、あまりの苦痛。
そして、その支配されたがりなこころのありかた。

あきらめるというのではなくて。
忘れてしまうというのでもなくて。
放棄するというのとも、ちがう。

執着を捨てること。

ただ手放す、という別れを学ぶこと。

2007年7月22日日曜日

ふわりゆらり



だいじょうぶ、きみはできる子。
海にいだかれているのだから。

2007年7月21日土曜日

くもり空の下、眼鏡と本と



くもっている空が、銀色に輝きはじめる。
そんな時刻、あるでしょ。

       *       *       *

眼鏡を新調しました。

先日、映画を観にいったときにどきりとしたんです。あ、字幕が、見にくくなってる。

ぼくは乱視が強いので、ああ、ますますひどくなっちゃったのかと。

不注意で踏みつけては自己流で曲げてなおすことをくりかえしていたので、フレームもずいぶん歪んでいたと思います。

眼鏡に関しては、迷うことなく、市内の「メガネドラッグ」。

ここの接客はとても気持ちがいいのです。疲れてささくれだったこころを癒してさえくれる。そんな、なにかがあります。毎週、通いたくなるくらい。

応対がていねいである、というだけじゃないんです。

ことば使いはきちんとしているのに、不愉快にさせられる対応というのはいっぱいある。はからずも、ぼくも慇懃無礼な態度だけはなぜか得意です。

でも、この店舗のメガネドラッグだけなのでしょうか。親身になってくれているということが、文字通り、全身で感じられる。

視力検査からフレーム、レンズの選択まで、安心して相談、まかせることができる。

とくにフレームを選ぶというのは、なぜだかはずかしくて、ぼくはむかしからとても苦手。ですが、この店だとずいぶん気楽に気分よく選ぶことができる。

この雰囲気はなんなんだろう。この店の人たちは、どんな社員教育を受けているのか。以前から、すごく興味があります。

メガネドラッグ教という宗教があるんですよ、きっと。で、強烈なドラッグと激しい電波をあたえられることで、社員はみな洗脳され人格改造されることになる。完全接客人間へと変貌を遂げるわけです。

すみません、あぶないですか。ちっともいい想像ではありませんね。でもほんと、それほど「いい」んです。

なんて、洗脳されているのはぼくのほうですね、これじゃ。

検査の結果、乱視はひどくなっておらず近視が進んでしまったとのこと。とりあえず老眼化というわけではなさそうです。

これまでよりも細身。そのシャープなフレームに、ちょっと贅沢して両面非球面レンズ。

できあがりは10日後になります。

       *       *       *
       
眼鏡を作った以外は、本ばかり読んでいた一日。

歌野昌午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)
なるほど、これは映像化絶対不可能ですね。むりやり映像化するなら、この小説のおもしろさの99%を捨てなくちゃならない。ははは。でも、どうしても残るのは、マンガを読んだあとみたいな読後感。いえいえ、もちろん、キライじゃないですよ。こういうミステリ。

呉智英『健全なる精神』(双葉社)
こんな博覧強記できちんと偏屈なおじさん(おじいさん、とはいうまい)には、もっともっと増えてほしい。ちょいワルなんて、あれはあれでみっともなくない? 男なら、すべからくこういう高齢者(失礼)を目指すべし。ぼくは残念ながらダメっぽい。マネできたとして、せいぜい偏屈になれるくらいか。もうすでにじゅうぶん偏屈だ、という説もありますけれど。

池田晶子『暮らしの哲学』(毎日新聞社)
『人間自身 考えることに終わりなく』(新潮社)同様、死の直前までの思索が収められた最後の著作。病魔が体力を奪っていくようすが、『人間自身〜』を読むと痛々しいほど伝わってきます。

ペンを握る力がゆっくりと、しかし確実に衰えていくようす。もともとこの著者には、週刊誌ペースで時事ネタなんぞあつかってほしくない。そんな思いがありました。

二次情報、三次情報で時事ネタを切る、それはいい。けれど、元となった情報がのちのち事実誤認だったと判明することが往々にしてあります。そうなると、せっかくの鋭い切り口も「そこ、切るところではないんじゃないかなあ」ということになりかねない。そんな橋は渡ってほしくなかったな。

雑誌連載に関しては、いつも、僭越ながら、どこかハラハラしながら見守っていた気がします。

こちら『暮らしの哲学』も、いまどきの話題をあつかっている。でも、全体としては、春夏秋冬、時候の移り変わりに思いをはせる、といった趣。語り口も、これはもしかしてテープ起こしなのだろうか?そう思ってしまうほど。最後に見せていただいた、やわらかさ。泣きたくなるような、静謐。

フレドリック・ヘーレン『スウェーデン式 アイデア・ブック』ダイヤモンド社
最近は、この手の本、好んで読んでいます。ジェームス・W・ヤング『アイデアのつくり方』(阪急コミュニケーションズ)とかジャック・フォスター『アイデアのヒント』(阪急コミュニケーションズ)とか。ビジネスで終わる話ではないんですよね。シンプルであること。こうした本を読むことによって、いま、ぼくはその指針を探しています。

林 公一『擬態うつ病』宝島社新書
現在、ほんとうに苦しんでいるうつの人は読まないほうがいいような。そんな、ちょっと不思議な良書。ぼくの場合、病気としてのうつとか擬態うつではなくて、気質的というか、生まれてこの方、からだの隅々、細胞のひとつひとつにいたるまで、もう生粋のうつ、なんだよなあ。いや、ほんと。でも、そうだと認めることで、あきらめもつくし、覚悟もできます。

ひさしぶりの一気読み、さすがに満足。

明日は、読書以外のことを。

2007年7月19日木曜日

最終的には、顔



肌寒いくらいの朝。
一日中、雲におおい隠された空に、飛ぶ鳥も、見ず。

こんな空を期待していたのだけれど。

       *       *       *

今夜、参議院議員選挙の期日前投票にいってきました。

投票のさいには、公約や主張、プロフィールをきちんと吟味しなければ。それはわかっているんです、わかっているんですが……。

各候補者に、どうも、それほど差違があるようには見えないんですよね。

選挙期間中ってのは、とくに、そんな気がします。よって立つ位置で、方策や表現はちがいます。けれど結局、みんな「国を政治を生活をよくします」と声高に叫んでいるわけで。

ましてや今回は「年金をめぐる選挙」といわれている。国が責任をもって支払います、100年は安心の制度です。そういってきたけれど、本来あたりまえであるべきことがあたりまえでなかった。それをあたりまえに実行するようにします、というのがみなの主張だから、ますますその差がわかりにくい。

ぼくの頭では、残念ながら、理解不能。かれらがなにを話しているのかすら、わからないときもある。えええっと、それって、たぶん、きっと、日本語なんですよね?

だれが当選してもいいです、政治家になった暁には、うまいことやってください。とりあえず、そんな気分。

       *       *       *

ぼくは、投票は、選挙ポスターの貼られているあの立て看板を眺めて決めることにしています。

「この顔はマズイだろ」
「ま、これなら及第点か」

そんな感じに、立候補者の「顔」で判断する。

「いいかげんだ」と怒られたことがあります。そうかなあ、そうかもしれない。でもやっぱり本心は、不真面目だとも不謹慎だとも失礼だとも思っていなくて。

人の品性って、その人の顔に出てしまうんですよね。どんなに隠そうとしても、ごまかそうとしても、おそろしいことに、表れてしまう。

なので、自分の顔を鏡に映すとき、ぼくは心底うんざりするのだけれど、「表情」ということばの重みが、そういうとき、あらためて得心できる気がします。

なんでそんなにみなさん政治家になんぞなりたがるのか。そのへんの感覚というの、ちっともわからない。でも、ならば。せめてそのなかで品性がいちばんマシそうな人に投票したいと思っているわけです。

ポスターの顔で、それが判断できるのか。

写真の修正なんていくらでもできてしまう。そんな事実は、コンピュータの普及によっていまや常識となりました。ところが、修正すればするほど、元の写真から離れていけばいくほど、そのことによってかえってその「人となり」が浮かび上がってしまったりする。

美容整形した人は、1ヶ所変えると、そのうちまたべつの箇所も手術したくなるらしい。「部分」に手を加えることによって全体のバランスが崩れているのに気づいてしまうから、なのだそう。

究極には、全改造? でも、それでも、期待していたとおりになるとは、かぎらない。

たかが写真、されど……。好感度を上げようと、やたらめったらいじってしまうわけにはいかない。

また、あれこれ規制があるためか、なにかのげんをかついでいるためか、選挙用のポスターというのは、いつみてもどれをみても古色蒼然としていますね。デザインとかセンスといったものが、まったく感じられない。ああ、でも「だからこそ街の風景のなかで目立つのだ」という理由があるのかな、もしかして。それならそれは、立派な戦略です。

ともあれ、選挙用ポスターというのは、あんがい素直。各候補者の顔、きちんと比較できるのではないかと思っています。

       *       *       *

今回もしっかり、立て看板の前で吟味しましたよ。

東京選挙区は定員5人に対し、候補者が20人もいる大激戦区だと聞いていました。でも、掲示板は、思いのほか、すかすか。ポスターを貼っていない候補者がずいぶんいる。

ポスターに頼らないという考え方で活動しているのかもしれません。支援者が少なくて、都内すべての掲示板にポスターを貼ることができないのかも。

こういう候補者は、もうしわけないけれど、考慮に入れません。

ポスターを使わないなら使わないで、それでけっこう。自己アピールの貴重な機会をみずから捨てることを選択したなら、その結果も、引き受ける覚悟があるはずです。ポスターを貼ってまわる支援者を集められない人というのは……。そもそも人望がないというか、そのていどの動員能力すらないという時点で、そのう、政治家としての基本的資質に欠けてません?

       *       *       *

投票、それから食事をして帰宅したら、あれま、選挙公報が届いていました。残念。もう1日早ければ、きちんと目を通してから投票したのに。

でもね、それでも最終的には、やはりポスターの「顔」で決めます。

いそがしい、めんどくさい、興味ない、なんていわないで。並んでいるポスターを、つらつら眺めてみるといい。

そこに立ち上がってくる、政治家をめざす人たちが、あらわにしてしまっている、なにか。

2007年7月17日火曜日

新天地にて



考えてみれば、ずいぶんウェブログサービスを転々としてきた。

いちばんはじめに使いはじめたのは、iBlog。ウェブログはすでに黎明期を終えていた。ブログ、と呼ばれ爆発的に拡大しはじめていたころのこと。当時、このシェアウェアは.Macユーザーには無料で使えたけれど、ずいぶん不完全なアプリケーションだった。でも、それゆえカスタマイズの面白さにはまった。なにより、文章と画像を組み合わせてエントリを書く楽しさに気づかせてくれたのは、このiBlogだ。

とはいうものの、いちどカスタマイズに失敗すると、そのあと、なし崩し的に挙動がおかしくなる。その繊細さに辟易し、次第にべつのアプリケーションを探すようになった。

ウェブログそのものへの興味というより、.Macの有効利用を探す過程。これがウェブログとつきあうようになったきっかけ。

iBlogから乗り換えたのは、BlogWave Stadio。これも.Macを利用するアプリケーションだった。こちらはあまり使わなかった。iBlogより安定しているという評価もあった。けれど、一長一短、それほど差はないように感じた。

.Macを利用するアプリケーション形式のウェブログに見切りをつけて、使いはじめたのは、livedoor Blogのサービス。アプリケーションの管理をしなくていい。カスタマイズの自由度も高い。それだけでじゅうぶん開放的な気分になれた。

この時期、他社のサービスを試してみるため、大手のアカウントはほとんど取ったのではないだろうか。

結局、それでもlivedoor Blogを使い続けた。いいウェブログサービスだった、いまでもそう思っている。

使っているウェブログをほかのシステムに乗り換えてみたくなるのは、なぜだろう。レイアウトを変えてみたり、サイドバーのブログパーツをつけ加えたり外したりするだけでは解消できない、なにか。たんなる気分転換、というだけですませられない移り気。生活の変化と、それは密接につながっている。

TypePadに移行してみた。ほんの2ヶ月前のことだ。livedoorで書いてきたエントリをまるごとインポートした。システムは安定している。投稿のスタイルも気にいっていた。けれど、長くは続かなかった。

有料サービスだけあって、うっとうしい広告が表示されないのは気分がよかった。けれど、テンプレートに手を加えようとすると、いちばん高い「Pro」というプランを使わなくてはならない。月額1,260円。年5,000円足らずでドメインを取得しレンタルサーバを借りられるご時世、この価格はずいぶん強気だ。「URLがいいから」それだけで使っている人を知っている。mac.comのメールアドレスを使用したいがために、.Macの料金を毎年「お布施」し続けているみたいな話。

これを機会に、いっそレンタルサーバを借りてMovableTypeかWordPressを導入するという手もある。以前から、結局それが最終到達点ではないかと漠然と考えていた。でも、ウェブログサービスの爛熟しているいま、そんなことに労力を費やす意味はあまりないような気もする。

流浪流転した結果たどりついたのが、このblogger。

サービス開始当初は魅力的には思えなかった。知らないうちに着実に進化していたんだなあ。ちょっと感慨深い。

大手ブログサービスのハデさはない。Googleのサービスという先入観がそう見せるのか、どこか無機質で冷徹な印象がある。国内で生まれたものでないせいか、バタくさい。完全にローカライズなんぞされっこない、そんな雰囲気すら感じる。でもそうしたことは、みな、利点でも欠点でもない。

現在、他のウェブログサービスからのインポート、そしてエクスポートの機能がない。クラシックレイアウトだけでなく、新しいレイアウトでもFTP投稿をサポートしてほしい。小さなことだと「最近のコメント」くらいは標準で使えればいいと思う。でも、こうした機能はそのうち実装されるはず。

いま、とてもわくわくしている。書くことにシンプルに専念できるような気がしている。

新しいことをはじめるまえに、ほんのすこしだけこれまでをふりかえってみた。

「いろんなことがあって、いまがある」

これが、ちかごろ、気に入っていることば。