2007年7月21日土曜日

くもり空の下、眼鏡と本と



くもっている空が、銀色に輝きはじめる。
そんな時刻、あるでしょ。

       *       *       *

眼鏡を新調しました。

先日、映画を観にいったときにどきりとしたんです。あ、字幕が、見にくくなってる。

ぼくは乱視が強いので、ああ、ますますひどくなっちゃったのかと。

不注意で踏みつけては自己流で曲げてなおすことをくりかえしていたので、フレームもずいぶん歪んでいたと思います。

眼鏡に関しては、迷うことなく、市内の「メガネドラッグ」。

ここの接客はとても気持ちがいいのです。疲れてささくれだったこころを癒してさえくれる。そんな、なにかがあります。毎週、通いたくなるくらい。

応対がていねいである、というだけじゃないんです。

ことば使いはきちんとしているのに、不愉快にさせられる対応というのはいっぱいある。はからずも、ぼくも慇懃無礼な態度だけはなぜか得意です。

でも、この店舗のメガネドラッグだけなのでしょうか。親身になってくれているということが、文字通り、全身で感じられる。

視力検査からフレーム、レンズの選択まで、安心して相談、まかせることができる。

とくにフレームを選ぶというのは、なぜだかはずかしくて、ぼくはむかしからとても苦手。ですが、この店だとずいぶん気楽に気分よく選ぶことができる。

この雰囲気はなんなんだろう。この店の人たちは、どんな社員教育を受けているのか。以前から、すごく興味があります。

メガネドラッグ教という宗教があるんですよ、きっと。で、強烈なドラッグと激しい電波をあたえられることで、社員はみな洗脳され人格改造されることになる。完全接客人間へと変貌を遂げるわけです。

すみません、あぶないですか。ちっともいい想像ではありませんね。でもほんと、それほど「いい」んです。

なんて、洗脳されているのはぼくのほうですね、これじゃ。

検査の結果、乱視はひどくなっておらず近視が進んでしまったとのこと。とりあえず老眼化というわけではなさそうです。

これまでよりも細身。そのシャープなフレームに、ちょっと贅沢して両面非球面レンズ。

できあがりは10日後になります。

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眼鏡を作った以外は、本ばかり読んでいた一日。

歌野昌午『葉桜の季節に君を想うということ』(文春文庫)
なるほど、これは映像化絶対不可能ですね。むりやり映像化するなら、この小説のおもしろさの99%を捨てなくちゃならない。ははは。でも、どうしても残るのは、マンガを読んだあとみたいな読後感。いえいえ、もちろん、キライじゃないですよ。こういうミステリ。

呉智英『健全なる精神』(双葉社)
こんな博覧強記できちんと偏屈なおじさん(おじいさん、とはいうまい)には、もっともっと増えてほしい。ちょいワルなんて、あれはあれでみっともなくない? 男なら、すべからくこういう高齢者(失礼)を目指すべし。ぼくは残念ながらダメっぽい。マネできたとして、せいぜい偏屈になれるくらいか。もうすでにじゅうぶん偏屈だ、という説もありますけれど。

池田晶子『暮らしの哲学』(毎日新聞社)
『人間自身 考えることに終わりなく』(新潮社)同様、死の直前までの思索が収められた最後の著作。病魔が体力を奪っていくようすが、『人間自身〜』を読むと痛々しいほど伝わってきます。

ペンを握る力がゆっくりと、しかし確実に衰えていくようす。もともとこの著者には、週刊誌ペースで時事ネタなんぞあつかってほしくない。そんな思いがありました。

二次情報、三次情報で時事ネタを切る、それはいい。けれど、元となった情報がのちのち事実誤認だったと判明することが往々にしてあります。そうなると、せっかくの鋭い切り口も「そこ、切るところではないんじゃないかなあ」ということになりかねない。そんな橋は渡ってほしくなかったな。

雑誌連載に関しては、いつも、僭越ながら、どこかハラハラしながら見守っていた気がします。

こちら『暮らしの哲学』も、いまどきの話題をあつかっている。でも、全体としては、春夏秋冬、時候の移り変わりに思いをはせる、といった趣。語り口も、これはもしかしてテープ起こしなのだろうか?そう思ってしまうほど。最後に見せていただいた、やわらかさ。泣きたくなるような、静謐。

フレドリック・ヘーレン『スウェーデン式 アイデア・ブック』ダイヤモンド社
最近は、この手の本、好んで読んでいます。ジェームス・W・ヤング『アイデアのつくり方』(阪急コミュニケーションズ)とかジャック・フォスター『アイデアのヒント』(阪急コミュニケーションズ)とか。ビジネスで終わる話ではないんですよね。シンプルであること。こうした本を読むことによって、いま、ぼくはその指針を探しています。

林 公一『擬態うつ病』宝島社新書
現在、ほんとうに苦しんでいるうつの人は読まないほうがいいような。そんな、ちょっと不思議な良書。ぼくの場合、病気としてのうつとか擬態うつではなくて、気質的というか、生まれてこの方、からだの隅々、細胞のひとつひとつにいたるまで、もう生粋のうつ、なんだよなあ。いや、ほんと。でも、そうだと認めることで、あきらめもつくし、覚悟もできます。

ひさしぶりの一気読み、さすがに満足。

明日は、読書以外のことを。

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